【福田峰夫】リクルートがスタートアップ精神を維持できる理由 Vol.2

リクルート常務取締役、角川書店(現:KADOKAWA)代表取締役社長、ジュピターテレコム代表取締役副社長を経て、今ではベンチャー投資もされている福田峰夫さんに、リクルートの成長過程やネット事業に着手した経緯、複数の会社での役員を経てお感じになった「経営」と「オペレーション」の違いについて伺うインタビューの第2回(全3回)。前回の記事はこちらです。

福田峰夫
早稲田大学教育学部卒業。1975年に㈱日本リクルートセンター(現㈱リクルート)に入社。1999年、同社常務取締役に就任。同社が立ち上げたネットサービス「ISIZE(イサイズ)」を役員として担当。2002年、(株)角川書店代表取締役社長、2003年に㈱角川ホールディングス専務取締役兼COOに就任後、2006年には(株)ジュピターテレコム代表取締役副社長に就任。スタンフォード大学客員研究員を経て、2018年、慶應義塾大学大学院経営管理研究科修士課程を修了予定。(株)オフィスM代表取締役。

(ライター:福田滉平)

「東大発ベンチャー」リクルートはなぜ若さを保てるのか?

朝倉祐介(シニフィアン共同代表。以下、朝倉):リクルートはもともと、東大新聞の広告代理店から始まったんですよね。リクルートが「東大発ベンチャー」という触れ込みで紹介されることはあまりありませんが、日本での学生起業としては、間違いなく最大の成功事例だと思います。福田さんが入社された1975年当時のリクルートというのは、どういった雰囲気だったのでしょうか?

福田峰夫氏(以下、福田):僕は1975年に入社したのですが、その直前の1973年にオイルショックが起こって、1974年くらいから日本の景気がどんどん悪くなっていったときでした。この影響で、1974年くらいからメーカーを中心とした「内定取り消し」が社会的な問題として取りざたされていました。 僕は、その前にギリギリ滑り込んだ、という世代です。

朝倉:内定取り消しって最近の問題だと思っていたのですが、当時からあったんですね。

福田:僕が記憶する限り、社会的に新聞紙上で「内定取り消し」が一番盛んに取り上げられていたのは、あの頃じゃないかと思います。
そうした社会環境だったからこそ、就職関連の調査を発表していたリクルートが有名になったんです。当時、就活に関した報道には「リクルート調べ」ということで、色々な調査がメディアに出ていました。今でもやっているような、求人規模や、就職意識、内定状況、などの調査です。そういった背景もあって、入社当時のリクルートは、規模こそそんなに大きくなかったのですが、そこそこに有名な会社でした。

創業者、江副浩正氏の横顔

朝倉:当時だと、創業者の江副浩正さんもまだ現役だったと思うのですが、福田さんの目から見て、江副さんはどんな方だったんですか?

福田:僕が入った時は、すでにリクルートはある程度成功していましたし、江副さんも38歳くらいだったので、社長と新入社員という一定の距離感はありました。僕たちの世代の江副さん像は、僕たちより4~5歳上の1970年頃に入社した世代の感じ方とは少し違うと思います。その世代の人たちは江副さんと10歳くらいしか年が変わらない中で、小さかったリクルートを大きくしようと一緒にやっていた方々なので、濃い関係を築かれていました。
ですから、僕たちの世代は特別に近かったわけではありませんが、それでも印象に残っている言葉があります。「自分は内気でシャイで、人前に出るのも苦手だし、できないことがいっぱいあるんだ。だからこそ、採用関係の仕事をやっているので、他の会社の手本になるような採用の仕組みを作って、自分よりも優秀な人を取りたいんだ」と、いつもおっしゃっていた。採用にものすごく熱心だったのはそれゆえで、非常に感銘を受けました。

それを実現するためにリクルートは実際、当時としては先進的な制度を導入していました。
一つは、「イコールオアベター」と言う考え方で、初任給や処遇も含めて、リクルートの社員は他の会社に比べて、イコール(同じ)かベターにする(よくする)という制度です。
この制度が導入された背景には、1970年初頭に多かった組合問題があります。組合が良い悪いではなく、経営と社員が一体化し、社員の人たちも経営者的なスタンス、視点で物事を見られるようにしたい、という大きな考え方のもと、「社員皆経営者主義」はリクルートの思想のベースになっていきました。

キープヤング

朝倉:大企業を含めて、すべての企業はもともとスタートアップですが、ずっとそのスピリットを維持するのは難しいことです。そうした中で、リクルートが創業から50年以上経った今でも飛び抜けて若い雰囲気を保っていられるのはなぜでしょうか?

福田:色々あるでしょうが、社内の風通しを良くするための風土が根付いています。たとえば昔から、社員の呼称を「さん」付けで呼ぶといった習慣が染みついています。昔からそういう風通しの良い環境で事業なり組織なりを大きくしてきたので、全体の風土として根付いたんじゃないかと思います。他の企業でも職位ではなく「さん」付けにしようという動きは何度か流行があったと思いますが、むしろ改めて「さん」付けにすると決めなくてはならないことに違和感があります。こうした風土は、本来は自然発生的にボトムアップで生まれるべきものではないでしょうか。

朝倉:たしかにそうですね。考えてみれば、マッキンゼーでもパートナーだろうが新入社員だろうが、基本は「さん」付けでした。

福田:また、組織の若さを保つ「キープヤング」という考え方がすごく大きいのではないでしょうか。常に新陳代謝ができる仕組みはすごく重要だと思います。
今の峰岸真澄社長は、48歳で社長に就任しました。その前の柏木斉さんも45歳で社長に就任し、54歳で辞めています。こうして、社長がどんどん代替わりし、また変わるごとに若返っていく。そして役員クラスにも、常に若い人たちが名を連ねている。そうした仕組みの影響が大きいんじゃないかと思います。
事業系の多くも、ボトムアップで生まれていました。リクルートの歴史というのは、新しいものを立ち上げてきた歴史ですが、いわゆるトップダウンで始めた回線事業や、不動産事業、金融事業などは、結局失敗してしまっていますよね。それ以外はすべて現場発です。リクルートというのは、現場からアイデアを吸い上げる仕組みや、ものごとを現場で考えるという姿勢が、ずっと定着しています。

リクルート事件はどうして乗り越えられたのか

朝倉:福田さんは、リクルート事件の激震も経験されていますが、会社としてあの事件を乗り越えられたのはどういった要因が大きいとお考えですか?

福田:僕は、リクルート事件の3年後の1991年に取締役になっています。
振り返って思うのは、リクルート事件の後でも事業自体はお客さまから信頼して頂けたことの有難さですね。広告ベースの事業モデルが多い中でもクライアントからの出稿は減らず、色々な情報誌の読者の方たちも引き続き活用してくださいました。
そうした、事業の価値、事業の強さがすごく大きかったんだと思います。

朝倉:信頼されていたということは、実際にクライアント、読者の方の役に立っていたということですよね。

福田:そうですね。その力が大きいです。事業というのは、お客さまが価値を認め、評価していただけるというのが、大きなポイントですよね。いくら売り上げが上がったとしても、またどれだけ営業が強くても、サービスを受けた人から評価されないと限界があります。

「じゃらん」や「ゼクシィ」が生んだマッチングビジネス

福田:リクルートもそうでしたが、昔の広告会社は、メディアの受け手についてあまり考えられていなかったと思います。要は、クライアントだけを見ていて、受け手の人を見ていない。お金をもらうほうばかりに顔を向けて、営業のスキルをはじめプレゼンテーションの技術、商品力、企画力、提案力を高めて行っていました。一方で、サービスの受け手である読者には、目の向け方が弱かった。

朝倉:それが変わった契機というのは何だったのですか?

福田:「じゃらん」や「ゼクシィ」といった、市販雑誌が出てきた時です。このことでサービスに対する考え方が少し変わってきました。
リクルートは無代紙(フリーペーパー)の「リクルートブック」などから始まりました。これらは、クライアントから広告出稿を頂いて、それを受け手に届けるビジネスです。しかし、市販誌として、広告だけに頼らず読者に買っていただいて売り上げを積み上げるというのは、すごくエネルギーがいることです。
買っていただくために、どうすればいいのか。この頃から、そうした読者マーケティングに初めて目を向けたんじゃないかと思います。
そこから、バランスの良いサービスになりました。お金をもらうほうにも、読者のほうにもきちんと目を向けるようになった。そこで初めて、マッチングビジネスと言えるようになったんです。
当時、マッチングビジネスなんて言葉は、社会にもリクルート社内にもありませんでしたからね。

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