サン・マイクロシステムズやシスコシステムズの日本法人代表を務められた松本孝利さんに伺うインタビューの第2回(全3回)。前回の記事はこちらです。
松本孝利(まつもと たかとし)
日本サンマイクロシステムズ(株)、日本シスコシステムズ(株)等をそれぞれ設立し、同時に代表取締役社長就任。 シスコシステムズでは米国本社のアジア担当副社長、日本法人会長を歴任。 その後、慶應義塾大学大学院、政策・メディア研究科教授(~2002年9月)。 法政大学ビジネススクール客員教授(~2012年)、法政大学理工学部教授(~2012年)、法政大学理事(~2008年)、法政大学名誉博士(2001年)
(ライター:福田滉平)
朝倉祐介(シニフィアン共同代表。以下、朝倉):DEC(ディジタル・イクイップメント株式会社。コンピュータを開発・販売していたアメリカの会社。1998年にコンパックに買収された)をお辞めになった後、松本さんはご自身でベンチャーを起こされたんですよね?
松本孝利氏(以下、松本):40代でベンチャーを始めたんです。MITを出たアメリカ人と、村井純さん(日本の情報工学者。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科委員長長兼教授。「日本のインターネットの父」と呼ばれている)の先輩でUNIXの研究で博士号を取った男と、3人で技術コンサルティングのインサイト・インターナショナルという会社を起業しました。 それまで僕は、DECで大型コンピュータの営業をやっていたので自信がありました。でも、メーカーが自社製品を売り込むのと違って、コンサルタントが売るのは目に見えないものじゃないですか。始めてみたのはいいけれど、売り方がわからないんですよ。説得の仕方も分からない。従業員の給料を払えなくなり、家を抵当に入れて支払いましたが、結局大きな借金を抱えました。会社は赤字続きで、4年後には潰れましたね。
チャンスの9割以上は、人から与えられるもの
松本:ただ、おもしろいことが起こりました。この会社がUNIXの専門会社だったから、バークレイ版UNIXの開発者で後にサン・マイクロシステムズのファウンダーとなるビル・ジョイを日本に呼び寄せ、村井さんと東京大学大型計算機センターの石田晴久先生を交えて、UNIXの有料セミナーをやったんです。計3回くらいやったかな。 それがきっかけでしょうね。そのあと、サン・マイクロシステムズの日本法人の立ち上げを任されることになりました。ビル・ジョイが、僕を推薦してくれたようです。
朝倉:そんなつながりがあったんですね。
松本:長いこと生きてきて、チャンスは人から与えられることが多い、と僕は気づきました。 たまたま運が良くて、ということもあるけど、9割以上のチャンスは人から与えられるんですよ。だから、「人から信頼されない人は、チャンスが与えられない」って、学生たちにも言っています。 「人脈」っていうのは、一銭も払わなくても助けてくれる人のことです。信頼関係があるということと、人格的に互いをリスペクトできるという前提があるからできるわけです。ベンチャーをやるなら、金も労働力も足りない中で事業をやるわけだから、人脈を持っているほうが絶対有利ですよね。 僕は幸運なことにサン・マイクロもシスコも、村井純さんにサポートしてもらいました。
上司を説得し、結成されたドリームチーム
朝倉:サン・マイクロシステムズの日本事業の立ち上げはスムーズに進んだんですか?
松本:いえいえ。サン・マイクロシステムズには、入って2週間後でクビになりかけたんです。 どうして、そうなったか。実は、当時のサンOSは、日本語化されていなかったんわけです。そこで、「日本語化したい」とアメリカの上司に言ったら、「東芝と日立が日本語化したものを持っている」と言う。しかし、それを入手して調べたら、使われているコードがASCIIじゃなかった。だから、ゼロから開発し直そうと思ったんです。 本社にメールして「開発し直したいから開発予算をくれ」と頼んだら、「無駄な予算になるからダメだ」と。当時の僕の上司は、スケールの小さい人だったんです。スケールの小さい上司の下で働くって、死ぬほど辛いね(笑)。 ただ、このままだとサン・マイクロシステムズの日本事業は、マーケットシェアでナンバーワンを取れないと思っていたので、もう一度「開発予算をくれ」と言ったら、また断られた。それでも折れずに言った3回目に、その上司から「クビだ」って言われたんですよ。まだ入社して2週間目でした。 悔しいじゃないですか。それで、その上司の上司に当たるシニア・バイス・プレジデント(VP)に経緯を説明し、「クビになりました。短い間でしたがお世話になりました」とメールを打ったんです。そうしたら、彼は「いや、1週間待て」と言うんです。1週間後、どうなったと思いますか? 僕の上司がクビになり、大変驚きました。
朝倉:入社早々、急展開ですね。そしてようやく、開発にこぎつけたんですね。
松本:日本語版サンOSの開発に予算を付けてくれて、村井さんが推薦した天才エンジニアのビル・ジョイや、ジェームズ・ゴスリングが開発メンバーに入ってくれた。ジェームズ・ゴスリングのことは、当時は知らなかったんですけど、数年後に彼がすごい人物だということがわかった。彼は、JAVAを開発したのです。その頃のサン・マイクロシステムズには、天才がゴロゴロいました。研究開発のVPは、エリック・シュミット(アルファベット会長。Google元CEO)でしたしね。
小林賢治(シニフィアン共同代表)登場する人物が今だと考えられないような、ものすごい面々ですね(笑)
松本:ものすごいメンバーです。それだけで僕は燃えました。「あぁ、サンに来てよかった」と思いましたね。
急成長させたサンを去り、SSAの社長に
松本:サン・マイクロシステムズの日本での事業は、4年間で300億円くらいの売上になりました。アメリカでカントリーマネージャー・オブ・ザ・イヤーという全世界の子会社で年に1人だけの賞を、4年間連続で授与されました。 でも、4年目に上司が変わりました。ワールドワイド・セールスのシニアVPでロシア系の独裁者みたいな上司でした。もう、マイクロマネジメントで、一挙手一投足について指示してくる。「言うとおりにやったら、売上が落ちるよ」って言っても「俺の言うことを聞け。ノーと言ったらクビだ」って言われた。人にクビにされるなんて自分のプライドが許さないから、その前に自分から辞めたんです。それが80年代後半のことです。
朝倉:そのあと、松本さんはSSA(システムソフトウェアアソシエイツ)という法人向けソフトウェアの開発会社に行かれていますね。どういった経緯だったのですか?
松本:サン・マイクロシステムズを辞めた後は、どこでもよかったんです。ただ、これまで経験していないことをやりたかった。NEC、DEC、インサイト・インターナショナル、サン・マイクロシステムズと、テクノロジーの世界を大体やったから、IBMのコンピュータ、つまり、ビジネス・コンピュータシステムについて勉強したいと思っていた。そこで、ヘッドハンターから誘われた、SSAという会社の日本法人の立ち上げ(社長)を引き受けました。本社はシカゴにあり、IBMのERPを手がけていました。 でも、面白くなかったですね。頑張っても、2年目で売上10億円くらいがやっとだった。「ちょっとエキサイトメント(興奮するほどの面白さ)がないな」と。当時は社員が30人くらいの規模でした。ただ、本社の社長からはどういうわけか大変信頼され、すごくよくしてくれたんです。僕がクラシック好きなのを知って、シカゴに出張するときには必ずシビック・オペラハウスの席を取ってくれるなど、とても大事にしてくれました。
【松本孝利】伝説の経営者が語る、成長するスタートアップの条件 Vol.1