INTERVIEW

【RPAホールディングス】RPAブームの8年前からオフィスロボ時代を予見 Vol.1

2018.05.18

2016年の初めに欧米のコンサルティング会社が提唱して以来、RPAという言葉をあちこちで目にするようになっています。これはRobotic Process Automationの略称で、ルールエンジン・機械学習・人口知能といった最新の認知技術を活用して、主にホワイトカラー業務の自動化・効率化を推進するという取り組みです。実は、この言葉が生まれるはるか以前の2008年に、工場のFA(factory Automation)からヒントを得てオフィス版のロボットアウトソーシングサービス「BizRobo!」をリリースしたのがRPAホールディングスです。日本では少子高齢化による労働人口の減少が続くだけに、特にRPAの普及に熱い期待が寄せられています。同社の高橋代表取締役に、RPAに注力するに至った経緯やビジネスの概要、今後の戦略などについて伺いました。

高橋知道(たかはし・ともみち)

一橋大学経済学部を卒業後、1993年に アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)に入社 。1996年にソフトバンク(現ソフトバンクグループ)に転職し、2000年4月に RPAホールディングスの前身となるオープンアソシエイツ株式が会社を設立して代表取締役に就任。以来、社名変更後も同社を率いる。

2000年4月設立のRPAホールディングスは大企業向けの新規事業コンサルティングに特化したビジネスを展開していたが、2008年9月のリーマンショックを機に様々な新規ビジネスを模索し、人間を補完する業務を遂行するデジタルレイバー(仮想知的労働者)であるロボット(ソフトウェアロボット)へのアウトソーソング事業を着想。ブラッシュアップを重ねながらコンサルティング営業を続け、日本におけるRPA推進の先駆者的存在となる。2016年には純粋持ち株会社へ移行し、現社名に商号変更。2018年2月期の売上高41億8800万円、営業利益4億6500万円・証券コードは6572。

(ライター:大西洋平)

孫氏の下でスカパー前身の立ち上げに携わる

小林賢治(シニフィアン共同代表。以下、小林):当初は今の業態ではなく、かなり幅広いビジネスを手掛けられていたようですね。どういった経緯で、今のビジネスに辿り着いたのでしょうか?

高橋知道代表取締役(以下、高橋):まずは僕のキャリアについて簡単に説明しておきますと、1993年に大学を卒業して入社したのがアンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)です。もともとはアーサー・アンダーセンという会計会社のコンサルティング部門だったのですが、1989年に分社化されて東京にもオフィスが開設されていました。実は、1953年にGEに対してコンピューターをビジネスに初めて導入したことによりコンサルティング業を始めたのがアンダーセンコンサルティングです。当時はITという言葉さえ生まれておらず、システムとか電算と呼ばれていましたし、学生の頃からパソコンを持っているのはオタクでした。だから、いわゆるITに秘められた可能性について僕が認識したのは入社後のことです。

小林:そして、それから3年程後にソフトバンク(現ソフトバンクグループ)に転職されるわけですね。

高橋:ええ。MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボの初代所長を務めたニコラス・ネグロポンテ氏が書いたベストセラー『ビーイング・デジタル—ビットの時代』を読み、来たるべきデジタライゼーション時代について感銘を受けました。そして、同じような未来を思い描いている孫正義氏が率いる会社で働くことにしたのです。当時のソフトバンクは店頭公開市場(現ジャスダック)に上場したばかりで、パソコン向けの雑誌とフロッピーディスク製のソフト販売しか手掛けていませんでした。でも、ちょうどその頃から新規事業の開拓を積極化し、メディア王のマードック氏と共同でジェイ・スカイ・ビー(現スカパーJSAT)を立ち上げるという話を耳にしたので、僕はピンときて履歴書を送り、採用されました。26歳のときのことでした。ちなみに隣のオフィスに入っていたのは、やはりソフトバンクが多額の出資を行ったヤフーでした。その後、ソフトバンク本体に戻ってソフトバンクファイナンス(現SBIホールディングス)の立ち上げにも携わり、そこでインターネットの可能性を再認識した僕は2000年4月に、4人で今の会社の前身を設立しました。いずれもアンダーセンコンサルティング出身者です。

ITバブル崩壊直後に起業し、リーマンショックでも試練

小林:2000年4月と言えば、いわゆるITバブル(ネットバブル)が崩壊した直後のタイミングではありませんか?

高橋:おっしゃる通りです。株式市場は完全にクラッシュし、特にベンチャー企業の資金調達においては極めて厳しい環境で、まさに最悪のタイミングでの船出となってしまいました。ただ、大手企業がネットを活用した新規事業に取り組み始めた頃だったので、そのお手伝いをすることでどうにか資金をつないでいこうと考えました。すると、思った以上にニーズがあることを実感し、2002年ぐらいからネットに特化した新規事業コンサルティングを本格的に展開したのです。すると、事業開発まで含めてコンサルティングを行うビジネスプロデュースというコンセプトがヒットして、僕たちのビジネスは2008年までそれなりに成長軌道を描いていきました。その分野ではそれなりのポジションを獲得し、会社としても40人程度の規模になったのが当社の第1フェイズです。

小林:「2008年まで」とおっしゃいましたが、その年の9月にリーマンショックが発生しています。やはり、御社の事業にも大きな影響があったのでしょうか?

高橋:環境が激変し、約4割の案件がストップしてしまいました。国内企業に的を絞ったビジネスプロデュースという“1本足打法”だったわけですから、ダメージは大きかったですね。当然、軸足を変えざるをえませんでした。そこで、業態転換を図って、2つの方向に可能性を見出しました。1つはアジア進出で、当時は中国のGDP成長が目覚ましかったことから、僕は2010年に家族を連れて上海に乗り込みました。もう1つは、新たな事業の開発です。コンサルティングだけではノックアウト寸前まで追い込まれたので、しっかりとした自分たち独自の事業を構築しようと考えたわけです。そして、ここで立ち上げたものこそ、今の子会社が手掛けている3事業です。

小林:そのうちの1つが2008年に設立したビズロボ事業部ですね。

高橋:そうです。僕たちはコンサルティングだけにとどまらず、個々のクライアントの要望に応えてロボット(ソフトウェアロボット)によるアウトソーシングも細々と対応していました。それを本格的に事業化して「BizRobo!」の提供をスタートさせたのです。「FA(ファクトリーオートメーション)のように、ビジネスマン・ロボットがホワイトカラーの代わりを務める時代が来るよね」と当社取締役の大角暢之が言い出して事業化に踏み切ったわけですが、あまりにもコンセプトが時代を先取りしすぎていたせいか、5年程度はまったく鳴かず飛ばずの状況でした。

(RPAホールディングス「成長可能性に関する説明資料(2/2)」より)

小林:時代を先取りした考えだっただけに、やはり最初のうちは営業活動で苦労されたのではないかとお察しします。大きな転機となったのは、日本生命が導入を決めたことでしょうか?

高橋:日本生命様が最初のお客様となったわ けではありませんが、最初に獲得した大型案件であることは確かですね。社内で慎重に検討を進められた様子で、最終決定が下されるまでに3年ぐらいの歳月がかかりました。

小林:RPAに対するニーズが顕在化してきたと実感したのは、いったいいつ頃からなのですか?

高橋:本格的に取り組み始めてから3年後に当たる2015年からですね。日本生命様の案件が上手くいった後、ようやく事業化のメド立ってきて、専属する社員を3人採用しました。

小林:それにしても、3年間もよく辛抱されましたね。まだRPAという概念も言葉もなかったものの、「ビジネスマン・ロボットの時代が来る!」と確信していたからこそでしょうね。

高橋:大角以下、携わっていたメンバーたちはそう思っていたみたいですね。僕だけはピンときていなかったですけど(笑)。