INTERVIEW

【アクトコール】「暮らしを豊かに」という使命のもとで住生活関連の多彩なサービスを手掛ける Vol.1

2018.05.15

「暮らしを豊かに」というコンセプトに基づき、多様な住生活関連総合アウトソーシング事業を展開しているのがアクトコールです。当初は緊急駆けつけサービスからスタートしましたが、不動産管理会社向けのサービスにも手を広げ、さらにM&Aも活用して収納代行や飲食事業などにも業容を拡大し、もはや一言では説明しきれないビジネスを展開しています。強烈な個性とユーモア、強いリーダシップで会社の成長をけん引する平井俊広代表取締役社長から、同社設立の経緯や経営戦略、目指している会社像などについて話を伺いました。

平井俊広(ひらい としひろ)

大学を卒業後、1988年4月に専門商社の高島に入社。28歳で退職し、平井物産代表取締役、ジェイビー総研代表取締役を経て、2005年1月に全管協サービス(現アクトコール)を 設立し、代表取締役社長に就任。

2005年1月設立のアクトコールは全国約1600拠点の協力会社と連携し、24時間365日対応のコンタクトセンターを介して、賃貸住宅入居者などの会員向けに、水回りのトラブルをはじめとする緊急駆けつけサービスを提供。また、企業のコンタクトセンター業務も幅広く代行。さらに、賃貸物件のオーナーや管理会社向けに、家賃決済と出納作業をセットにした収納代行サービスを提供。 他にも自社による不動産開発や飲食事業、AI研究事業、音楽事業など、多彩なビジネスを展開している。2017年11月期の売上高43億800万円、営業利益3億6700万円。証券コードは6064。

(ライター:大西洋平)

経営に行き詰まった後輩を救うために起業の道へ

小林賢治(シニフィアン共同代表。以下、小林):最初に、御社を設立するに至った経緯からご説明いただけますか?

平井俊広(株式会社アクトコール代表取締役社長。以下、平井):まず、僕は二カ国語を喋る人間でして。日本語の次は、大阪弁の中でも一番品のある地域の言葉です(笑)。そう、岸和田ですよ。長嶋茂雄さんがまだ現役でジャイアンツがV8を遂げた頃に僕は野球を始めて、甲子園をわかせた銚子商業の“黒潮打線”に憧れ、高校進学の際には強豪野球部のある男子校を選びました。ところが、いざ野球部に入ってみると、1年にたった2回しか休みがないという厳しさ。あまりにもキツイから退部したら、その後に2度も甲子園に出場したから、ホント悔しかった。もしも残っていたらレギュラーになっていたはずで、非常に悔いが残ることでした。

小林:大きな挫折を味わったわけですね。その後はどうなさったのですか?

平井:諸事情で大学は自分が希望していたところには進めなかったので、とにかく卒業さえできればいいと考えました。だから、とにかく様々なアルバイトに明け暮れる日々を過ごしました。そして、大学卒業後は専門商社に入ったわけですが、ここで僕は一つの決心をしました。ほとんどの人たちは、あらかじめ決められているルールに従って生きています。だけど、僕は「会社が決めたこと」ではなく、「自分自身で決めたこと」に沿って働こうと思ったのです。就業規則で9時出社と定められていたら、僕は8時には自分の席に着く。売上目標が年間1億円だったら、僕は1億5000万円をめざす。こうして会社は定めたことよりもつねに上のことをやっていけば、文句を言われる筋合いもありません。

小林:会社としては、そのような猛烈社員なら、むしろ大歓迎です。でも、やがてその商社をお辞めになるわけですよね。

平井:ある後輩が会社を辞めて営業代行の会社を立ち上げ、「命を賭けて頑張るつもりです!」と言っていたので、僕も応援していました。最初のうちは業績も好調でかなりの高収入だったことから、僕の周辺の人間もどんどん辞めて後輩のもとに合流していきました。ところが、その会社の経営が急に苦しくなって、「どうしたらいいでしょうか?」と僕のところに泣きついてきたのです。そこで、僕は腹を括って5年間勤めた商社を退職し、彼らの面倒を見てやることにしました。

小林:絶体絶命のピンチで、リリーフ役を買って出たわけですね。それで、どうやって建て直そうとしたのでしょうか?

平井:携帯電話の販売です。といっても、タダでもいいからとにかく大量に配って、より多くの契約者を獲得したいというのが当時の通信事業者の意向でした。だから、僕たちは3日間で6000台を配りきりましたね。正月三が日に神社の境内でくじ引き大会を開催し、ハズレだった人にもれなく携帯電話を進呈したのです。神社からの貰い物は無碍にできないのが日本人ですし、この作戦は見事に当たりましたね(笑)。でも、そのうち携帯電話は店舗を通じた販売が主体となってきたので、それだけのコストを抱えるのはリスクが高すぎると判断して、あっさり別のビジネスに切り替えることにしました。

小林:次はどのようなビジネスに目をつけたのですか?

平井:ちょうどその頃、大久保秀夫さん率いる新日本工販(現フォーバル)が当時として最速の記録で株式上場(当時は店頭公開)を果たしました。いわゆる連鎖販売を手掛ける会社が上場したので、僕は非常に面白いと思いましたね。日本では「連鎖販売=マルチ商法」といった悪いイメージで捉えられがちですが、アムウェイがグローバルにビジネスを展開しているように、すべてが非難されるべきものではありません。そこで、取り組み始めてみると、瞬く間に16万人もの市場を獲得できたのです。ただ、ビジネスに失敗して落ちぶれていく人たちをたくさん見ているうちに、次第に僕は空しさを感じるようにもなりました。

ギリシャショックの逆風下で予定通りIPOを敢行

小林:その思いが次の起業へと結びついていくのでしょうか?

平井:ええ。何をせずとも毎月ある程度の収入を得られる仕組みが出来上がっていましたが、40歳になった時点で、そういった暮らしをあっさり捨て去ることにしました。そして、特に何をやろうと決めていたわけではなかったけど、上京して森ビルにオフィスを構えました。森ビルの中でもかなり築年数の経った古ビルで、わずか17坪の狭い部屋です。だけど、新しいことを始めるにあたっては住所(ビル名)が肝心ですから、僕にとっては森ビルであることが重要だったのです。

小林:すでにその頃から、今の事業につながるようなアイディアが閃いていたのですか?

平井:何も思いついていなかったし、何も決めていませんでしたよ。ただ、会社を作っただけで、他には何もありません。だけど、僕の中に夢はありました。それは、自分の会社をIPOさせることです。当時の状況でそんなことを口にすれば、「ウソをつくな!」と誰もが突っ込んだことでしょう。だけど、ウソはそのことが過去となってから、初めて偽りだったと確定するものです。だから、まだ確定していない未来のことに対して、ウソというものはありえません。「ホラ」を英訳すれば、「ビジョン」となるわけですから(笑)。

小林:まさに有言実行で、会社設立から約7年後には実際に上場を果たしたわけですね。

平井:だけど、紆余曲折もありましたよ。上場予定の約1年前に当時の主幹事証券会社より、スケジュール変更の話が持ち上がりました。これは恐らく系列の銀行がベンチャー企業の上場に消極的姿勢を示したからだと思っています。そこで、別の主幹事と組むことになったわけです。ところが、東京証券取引所から承認を受ける2日前の段階になって、ギリシャショックの煽りで、また延期になりそうになったことも。ただ、こちらの強い意志が尊重され、最終的にはオンスケジュールで進めること合意いただいたんですが。案の定、ロードショー(機関投資家向け説明会の開催)中は想定価格がずっと下に張りついていましたが、ギリシャで選挙が行われてアク抜けしたことでようやく値段がつき、2012年7月13日に上場の日を迎えたわけです。別にダイエットしていたわけでもないのに、1年間でも10キロも痩せられましたよ(笑)。